四日市公害被害地を歩く

2008/08/25

特別講座「四日市公害被害地を歩く」の資料です。

近鉄塩浜駅から塩浜病院跡、塩浜小学校、磯津へ

[詩]匂い  石垣りん
 四日市へ通ってくる小学校の先生が言いました。
 「塩浜」の駅に着けば目をつむっていてもわかります。
 クサイんです。
   ○
 テレビはダメです
 匂いがうつりませんから。

四日市は江戸時代より菜種油の生産が盛んで「伊勢水」としてその名をとどろかせていた。
四日市出身の作家・丹羽文雄は、四日市をえがくとき、好んで“菜の花”をとりあげている。
 4月9日は海山道の稲荷条にあたっていた。朝早くから午後になっても、海山道参りの人々は菜の花畑に埋まって歩いていた。
   (1936年・昭和11年発表の小説「菜の花時まで」より)
1960年代前半、公害が激化する頃、菜の花畑が田圃から消えていった。

1)日本で最初の本格的な石油化学コンビナートは、1955年(昭和30年)12月にまず中部電力三重火力発電所が石炭を燃料に発電を開始。1958年(昭和33年)4月に昭和四日市石油が石油精製をはじめ、三重火力は石炭から重油に切り替え、三菱油化が昭石のナフサ供給をえて1959年(昭和34年)6月に換業をはじめ、油化よりも前から操業していた三菱化成と三菱モンサント化成、石原産業からなる、工場群が出来上がった。

以下は、添付ファイルをご覧ください。